勝負と卓球は次元が異なる

 あなたにも、こんな経験があるはずだ。
 ゲームカウント2-2で迎えた最終ゲームのカウントは9-9。試合は、いよいよ大詰めだ。サービスは相手。レシーブに入る前に、「集中だ!」と、自分に言い聞かせるようにさけんでレシーブの構えに入った。眉間にしわを寄せたその表情には、緊張と気合いが入り交じった悲壮感が満ちている。まさに試合のドタンバ、緊張し、びびり、しびれる……。
 さて、なぜ、ここで「集中だ!」なのだろう? 勝負の決着は目前だ。頭のなかは、「勝ちたい、負けたくない」という思いが渦巻いている。もっとも、誰だって、このような局面では、こういう思いがきわだってくるのも無理はない。
 ところが、「勝負」と「卓球すること」は別の次元のテーマである。そんなことを知ってか知らずか、卓球のプレーそのものではなく、試合の勝ち負けにこころを砕いてしまって、どこか集中していない自分に気づいている。だから、そんな気持ちを振り払うように、「集中だ!」が口をついたのかもしれない。
 意を決してレシーブ体勢に入る。相手のショートサービスが自分のバックへきた。とっさにツッツキで返したら、何とオーバーミス。まったく平凡なナックルサービスなのに、こういうときに限って、いつもミスしてしまう。
 10-9で相手のマッチポイント。いまの自分のプレーは消極的すぎた、慎重になりすぎてミスが出たのだと反省して、「ここは強気だ!」と言い聞かせ、得意のドライブで攻めようと、素振りを2度繰り返した。
 そこで、もう一度、気合いを込めて「集中だ!」とさけんでレシーブに入った。こんどのサービスは、フォアへのスピン系ロングサービス。待ってましたとばかりに、力いっぱい回転のかかったドライブをかける。だが、またしてもエンドラインをオーバー。万事休す。うなだれて、敗者審判の席へ。
 さて、こんな肝心なところで、なぜ凡ミスを2本も連続してしまったのだろうか? 最終ゲーム9-9までは、こんなレシーブミスをしなかったはずだ。こんな経験、「あなた」はありませんか?

自我のおしゃべりが集中を乱す

 実は、「集中だ!」とさけんだ、その時点で、すでに負けていたのかもしれない。誰に負けたのか? それは「相手」ではなく、自分自身だ。そう、自分に負けたのだ。「自分」というものをもう少し厳密に述べるために、心理学用語を使っていうと、「自我」というものに負けたのである。
 自我とは、私という意識を成立させている心理的機能だ。自我には、ある種の傾向があって、その最大の特徴は過去や未来に思いを寄せてしまうことである。言葉を変えれば、「いま」にいないのだ。多くの人は、過去を悔やみ、未来に不安を抱えながら、日々の暮らしを生きているものだが、それは典型的な自我のしわざである。それは、いま経験したような、緊張した局面で自我は顕著な傾向を見せる。
 「集中だ!」とさけんだのには、わけがあった。ドタンバになって、勝ちたい、負けたくないという気持ちが高まってきたのだが、それは自我がそう思ったからである。それは、自我のおしゃべりなのだ。
 自我はいつだっておしゃべりしている。このおしゃべりを、ちょっと高級に記述すると「思考」になる。とくにこういう局面では、自我のおしゃべりの声は大きくなる。そのおしゃべりに気が散って、気持ちが集中できないので、思わずここは気合いを込めて精神統一しなければと、無意識的に「集中だ!」が口についたのである。
 もちろん、このとき、自分の心理状態を分析していない。冷静に客観的に自分の状態を見つめていたら、あんな凡ミスをしなかったはずだから。
 自我は勝ちたくて勝ちたくてしようがない。でも、「勝ちたい」という心理と、「卓球をする」という心理は別のものだ。そのふたつの葛藤が精神状態を乱して、無意識にここは精神統一が必要だと思って「集中だ!」が口をついたのである。
 「勝ちたい」というのは「結果」を求める気持ちであり、「卓球をする」というのは「過程」である。結果を求めることは、未来のできごとに意識を向けることであり、過程というのは、いまこの現在である。そして、卓球をしているときというのは、過去や未来ではなく、いまこの現在の連続のなかでおこなわれている。ちなみに、一般的な集中力の定義として、「いま、このとき」に意識や注意が向けられている状態だとされる。
 実は、スポーツに限らず、この世でもっとも大切なことは、過去や未来ではなく、「いま、このとき」にあるのだ。そう、過去を悔やみ、未来に不安を抱くのは、自我をもった動物であるヒトに共通したテーマなのだ。

自我とグリップ

 試合の最終局面、勝負の決着がもうすぐ着くという時点で、「集中だ!」と気合いを込めたことが、逆に集中を乱し、それがあだとなったのである。なぜなら、集中とは気合いを込めることではないからだ。そのへたに込めた気合は、自我のエネルギーになっただけである。よりいっそう自我は強化され、勝ちたいという意識が高まったのだ。
 そして、その反応として、真っ先に従順に反応するのが「手」である。自我のはたらきが、もっともよく表現されるのが手である。手は、自我の手先なのだ。脳の最大のアウトプット器官は手である、と脳学者が述べるのと同義と考えてもいいだろう。事実、脳のはたらきは筋肉の動きに直結している。たとえば、緊張したとき、肩の筋肉は硬直する。でも、このことをほとんどの人は意識しない。こんど緊張したとき、肩に意識をもってくると、両肩が上がるように硬くなっていることがわかるだろう。ほとんどの肩凝りの原因はここにある。
 なぜ、あんな大切な局面で凡ミスを繰り返したのか? 勝ちたいという自我のはたらきが手に伝わり、いつもとはちがう手の動きをしたためである。簡単にいってしまえば、いつもよりグリップを硬くにぎって、インパクトの瞬間、手に力が入りすぎたのだ。勝ちたくてしようがない自我によって、手もとを狂わされた結果、凡ミスをしたのである。
 グリップは柔らかく握れ、とほとんどの指導者は口を酸っぱくする、その理由はここにあるのだ。ビギナーほど、ものすごく強く握っている。何度、注意しても、なかなか柔らかくならない。ビギナーは、ボールを無意識に、「手の操作」で相手コートに入れたいという気持ちが強いからだ。グリップは、日ごろの練習から、常に柔らかく、弱く握ろうと意識していないと、気がついたときは、いつも硬く、強く握りしめているものだ。トッププレーヤーは、みんな驚くほど柔らかく握っている。練習のときに、いつもグリップを柔らかく握ることを意識して、腰を中心にすることを意識してスイングしてみよう。ほんとうに驚くほど、凡ミスが少なくなる。
 ちなみに、緊張したとき、手に汗を握るけれども、その汗は脳の緊張状態、つまり自我の作用が、汗でもって表現されたことを明確に物語っている。

静かにいまここにいる

 アメリカ・バスケットボールのスーパースターだったマイケル・ジョーダンは、「バスケットボールのコートに足を踏み入れるたびに何が起こるかなど知るはずもありません。今この時のために生きています。今この時のために私はプレイするのです」と述べているが、彼は「いま、このとき」にいることができる能力が高かったのだろう。
 私たちがほんとうに、「いま、このとき」に意識や注意がむけられ、集中したとき、それは「集中だ!」とさけんだ状態とはまったく反対の静かな心理状態となる。「明鏡止水」の心境だ。曇りのない鏡と静かにたたえた水面から、こころに何のわだかまりもなく、やすらかに落ち着いた心境をあらわした言葉である。
 そして、明鏡止水の境地は、次に紹介するような奇蹟的なことを起こす。
 かつて、その名は「キング夫人」として世界的に有名だったビリー・ジーン・キングは、60年代から70年代にかけて、全英・全米・全豪・全仏などの女子テニスのビッグタイトルを総なめにした。まさに、当時のスーパーアスリートだった。そのキングは「パーフェクトなショット」について、このように述懐している。

それが起こるのが自分でわかるのです。それはたいてい何もかもが順調な日、多数の観客が熱狂して見守り、私は完全に集中しきっている時なのです。まるでコートの喧騒の彼方の、完全な平安と平静の場所へ自ら飛んでゆくことができるように思えてくるのです。

 キングは「平静」のなかで、何ものにもかえがたい感動を得るとも述べている。この「平静」こそが、明鏡止水の深く集中した状態である。
 また、次のキングの発言は、人間にとって歓喜の究極、幸福の極致とも思える境地ではないだろうか。

 それは完全な平静のなかで起こる激しい行為……の全結合なのだ。……これが起こると、私は試合を中止し、マイクロホンをつかんでこう叫んでしまいたい。「まさにこれ、このためにやっているのです!」最後に手にする大きな賞のためでも、ほかのなんのためでもない。真に純粋ななにかをなしとげ、完璧な感動を身をもって生きたという証し、ただそれを得んがためである。この感動を、その起こった瞬間にお伝えできないのが残念でならない。それをひとりひとり感じとっていただきたい、そう思うばかりである。

 スポーツをするうえで、卓球をするうえで、いかに集中することが重要なことか、ご理解いただけただろうか。次回は、ではどうすれば集中した状態に入ることができるのか、実践的に探求してみよう。次回のキーワードは、「視線をコントロールする」ことで集中力を高める方法である。
 

                    (秋場龍一)

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