集中すると何が起こるのか?

完全な平静のなかで

 このように、「眼球でボールをとらえる」とき、頭がとてもクリアというか、心が静かに落ち着いているというか、「平静な心境」にいることができる。つまり、深い集中に入るのだ。そして、このような心境のなかで、ピークエクスペリエンスと呼ばれるエクスタシーともなった至高体験や、超人的なピークパフォーマンスが生まれる素地がつくられる。
 前記したような、テニスのスーパースターであったキングのスーパープレーが誕生し、また内的には「完璧な感動」というような境地に達するためには、「平静な心境」という、深く集中した精神状態になることが条件となるのである。つまり、キングが試合を中止しても観客に伝えたい「完璧な感動」とは、「完全な平静のなかで」起こるのだ。「完全な平静」が「完璧な感動」を得る大前提なのである。
 「静寂」と「幸福」について、盲目の女性登山家のコレット・リチャードは次のように語っている。

 (ある山頂に到達して)私はそこに腰を下ろして、自分の全てを傾けて耳を澄まし、渾身の力を振り絞って、心から愛するこの山への想いを凝らしました。……あの瞬間、私ほど幸せな人間がこの世に存在したでしょうか?/静寂は虚無ではないからです。静寂は〈生命〉であり、人を神の言葉とともに在らせるのです。あの場所は静寂に満ちていました??つまり、生命に満ちあふれていたのです。

 スポーツのさなか、プレーヤーの外界では観客の声援やざわめきが、内界では緊張や恐怖、興奮、野心、あるいはフォームの分析、試合展開など、さまざまな知覚や感情、思考がはたらいている。こういった状況のなかで、平静心や静寂感を得るというのは、かなりの困難をともなうように思われる。
 キングは「完全に集中しきっているとき」に「完全な平安と平静の場所へ自ら飛んでゆく」と述べたが、完全に集中することで、静寂な心境に入ることができるようだ。あるいは、こういってもよい。静寂な心境こそが、完全な集中であると。
 「完全な集中」と呼ばれる、ある精神領域に達するとき、心に去来するすべての思念は満ち足りたように調和して、自己の内外の雑音は溶けたように聞こえなくなる。そのとき「静寂」という存在が屹立し、身心を一つに統合する。
 静寂とは、たんなる静かな無音の精神状態ではなく、すべての「音」が凝縮し、かつ溶解した状態なのだ。それは、昼の太陽の光が、すべての色をふくみ、無色透明の光へと調和することと同じなのだ。まさに邪念がなく、静かに澄んだ「明鏡止水」の心境である。松岡正剛はその名著『花鳥風月の科学』で、「おそらく『神という情報』をさがすということと『意識の集中』をさがすということは、似ていることなのです」と、述べている。
 さて、「平静な心境」になるには、「視線のコントロール」のほかに、もう一つ重要な「呼吸のコントロール」が必要である。次回は「呼吸のコントロール」について展開したい。
 

                    (秋場龍一)

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